キリスト教が盛んだった時期

キリスト教が盛んだった時期

キリスト教が布教していた地域だった

この茨市は色々な意味で様々な歴史を孕んでいる街でもあります。それは時に時代の風潮からはずれ、日本という国から考えたときには異端とも言われていたキリスト教が布教していた地域ということもあって、当時は多くのキリシタンがここに住んでいたという歴史を持っているのです。

キリスト教が布教したのは、と聞かれたらやはりそんな中で最も歴史的にキリスト教を寛容に受け入れていたのは、天性の才覚を有しておりそのまま存命していれば確実に天下を手中に収めていたとも言われている『織田信長』の存在でしょう。信長は当時の人々から考えたら異端とも呼べるようなキリスト教に対して抵抗なく、むしろ一つの宗教として仏教と同じく信長自身はキリスト教を受け入れたこともあって当時はキリスト教を信仰している民もそれなりに存在していました。ですが信長が亡くなった後に台頭してきた豊臣秀吉の治世においては、キリスト教を信奉することを禁忌として信者を弾圧するようになる。それは徳川幕府時代にも続き、キリスト教徒ではないということを示すために踏み絵を行うという政策にも繋がっていくことになるのですが、

そんな時代の影響の中で隠れキリシタンの人々にとっては現在の大阪府茨市という街は非常に重要な意味を持っているのです。

高山右近という統治者の存在

ではどうしてこの茨市がそんなキリシタン達にとって歴史のある街になったのか、それは当時その昔この地がまだ高槻藩の領土ということもあったこと、そしてその当時高槻藩の藩主として君臨していた『高山右近』という存在があったからこそ、この茨市はキリシタンにとっては古い歴史、そして日本にとっても歴史的にキリシタンというものの存在がいかに当時の人々にどれだけの影響を及ぼしていたのかということを証明しているのです。そんな茨市を知るためにまずは高山右近という支配者について少し見ていくことにしましょう。

高山右近さんの出身は当時の摂津国三島群高山庄、なんて書いても想像できる人はほとんどいないでしょう。現在の地名で言うところの大阪府豊能郡豊能町高山となりますい。地元の人以外ではないとこんな地名を言われても分からないと思うので、詳しい場所に関して知りたい場合は検索してみてください。そんな高山で生まれ育った領主の一人として生を受けました。また、血筋としては何かと歴史の裏で暗躍していた忍びの一族として当時活動していた甲賀の一族の本体ともいえる『甲賀五十三家』に属している一つの家系である、とも言われています。忍者であってキリシタンでもあるんですね、何処の二次元世界のキャラですかと言いたいところです。また、彼の父親は当時は相当な力を持っていた実力者の一人でもある三好長慶に使えており、彼の重臣でもある松永久秀に従って大和国宇陀群の沢城を居城として活動をしていました。

これだとキリスト教徒何ら関係ないと思われますが、実はこの頃からキリスト教の洗礼を受けていたのです。しかも年齢的に12歳という多感な時期にキリスト教徒としてある意味では再誕した右近さんは、洗礼名として『ユスト』という正義の人という意味の洗礼名を手に入れたのです。子の事実から分かることとしては、家族揃って全員がキリスト教徒としてすでに洗礼を済ませていたということです。この頃からそれまでの日本には無かった信仰心に触れることでやはり感銘を受ける日本人がいたというのは、感受性豊かというか、もしかしたらその当時の日本の状況を疑問視していた人も少なからず存在していたということになるのではないだろうか。結局のところ、優秀な家柄で生まれ育っても当時は戦乱の世として激動の時代の中でただ戦っていればそれですべてが解決するとは思えない人間がいたからこそ、キリスト教の教えに救いを求めていたのではないでしょうか。殺し合いという不毛な争いの中で傷ついていく自分たちと、血塗られた時代を歩いている中で自分たちを救ってくれるのは神仏の神ではなく当時で言うなら異端の神に信奉することで自分たちを救ってくださる、そう考えていたのかもしれません。現代の日本人の多くが宗教というものに対して希薄な思いをもっていると思いますが、戦国時代ともなれば崇拝する対象がいなければまず生きていくことが出来ない、そんな風に捉えていたと考えられます。そんな時代の中で右近さんもキリシタンとして活動を続けていたのですが、彼がキリスト教から脱却しなかったことでやがてそれは国に反する異端分子として見られてしまうのです。

選挙行こう

弾圧と国外追放、そして逝去

時代の流れから考えてみると、何も豊臣秀吉もその後に続くことになる徳川家康に関してはも初めからキリスト教についてそこまで態度が硬化なものではありませんでした。しかし年月を重ねるごとに秀吉は国内へと流れ込んでくるキリスト教の存在を制限し始め、徳川家康も自身が天下統一を成し遂げるとその後の政策でキリスト教徒を正式に禁教として制定したのです。心変わりの変化としては、キリスト教へと回収した民の一部が海外に奴隷として横流しされているという事実があるなどのことが発覚した、ということもある。旧来の神仏の教えと、キリスト教の教えでは根幹そのものが異なっているために宣教されてしまった人間は染められた信仰に対して絶対の忠誠心を誓ってしまうものです。それは高山右近という当時では有名すぎるキリシタン大名として活動していたこともあり、当時の高槻藩では当時の日本から考えると信じられないような状況にあったのです。

キリスト教を積極的に自身が統治している領土内で広めていく一方で、その反面で藩内にある神社仏閣を弾圧する活動を行なっていたというのです。そのため彼が統治している時期に神社仏閣も数が異常なまでに減少し、藩に仏像というものが存在しないと言うことまであったといわれています。キリスト教の中では高山右近さんは有名な信仰者として崇められていますが、神仏関係の記録の中では熱心に神社などを潰しにかかってくる高山右近という存在はまさに暴君そのものだったのです。そんな彼はやがて日本という国の中では居場所を失ってしまいます。

徳川家康の本格的なキリスト教の弾圧の中で、高山右近さんは厄介払いされるように国外へと追い払われてしまうのです。その後家族と共にマニラへと渡ったまでは良かったですが、長い船旅と老齢ということもあって高山右近という命は日本に戻ることなくマニラにて人としての一生を終えることになったのです。日本に居場所がないとして出て行こうとする人々もいたらしいのですが、右近さんはそんな引止めに関して応じることなくマニラに渡ったのですが、彼からすれば本望だったのかもしれません。幼い頃からキリシタンとしてその真髄から染まりきっていることもあるでしょう、ようやく高山右近は自分があるべき場所へと帰ることが出来たとそう実感していた可能性も十分にありえるといえるでしょう。熱心な信者ほど宗教発祥の地に関して思い入れをもつ、というわけではありませんが現地に行って更なる信仰に身を委ねたかったのかもしれませんが、その願いを叶えることなく高山右近は神の膝元へと帰っていったのかもしれません。

高山右近本人としてはまだまだ遣り残した事はあったのかもしれませんが、彼が作り上げた藩では彼の教えからキリシタンとして活動をしていた国民がいた現状を忘れてはいけないでしょう。そんな人々が今更神仏へと改宗できるはずもなく、相当苦労することになったでしょう。その後は史実でもご存知のとおり、キリスト教の居場所は日本からドンドン失われていき人の目に付かないところで神様と接する機会を設ける『隠れキリシタン』の存在が出てくるのです。

政治ニュース